粟ケ池・中野遺跡

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粟ケ池遺跡は美具久留御魂神社の東方〇・五キロの桜井二丁目にあり、粟ケ池と呼ぶ南北四〇〇メートル、東西二〇〇メートルの灌漑用水池の北に接している。この池は北に向かって緩やかに傾斜する河岸段丘上の浅い谷地を北側と東側に築堤して貯水した人工の池で、『河内志』は『日本書紀』仁徳紀一三年条の「冬十月、造和珥池」の記事を引いて和珥池に擬し、『河内名所図会』は聖武天皇の奈良時代に構築したものと説くが、いずれも積極的な根拠がない。須恵器片が広く散布し、サヌカイト片も認められて、その範囲は南北一五〇メートル、東西八〇メートルにわたっている(393)。

393 粟ケ池遺跡所在図 (1:15,000)

 中野遺跡は中野町二丁目にあって、上述した喜志遺跡と同様に弥生中期以降の集落遺跡で、弥生時代の包含層の上方に土師器片と須恵器片が広く包含され、中世の遺物に至るまで断続的に続いている。試掘調査と分布調査を行なった当時は、南北一一〇メートル、東西一八〇メートル程度の広さを遺跡の範囲として推測したが、その後遺跡の範囲はさらに広く、東西三〇〇メートルを越えることが判明した。ここでは弥生時代の住居址のほか、時代の下る土師器・須恵器片を採集して、古墳時代から奈良時代にかけての集落も引き続き営まれていたことを推定した。東高野街道から約一〇〇メートル西方には、南北の方向に幅広い粘土層の堆積があり、初期の調査の段階では、集落遺跡の西限を画する沼沢あるいは河川かと推定した。しかしその後第二次の調査を試みた結果、この粘土層下から西方に向かって遺物を包含する層が広がっていることを確認したのである(394)。

394 中野遺跡所在地図 (1:15,000)

 西方での出土遺物には土師器・須恵器のほか、円筒埴輪片や瓦片など多様なものがある。これらの遺物をともなって地山上に沢山のピット群も検出され(395)、その中に建物の柱穴も含まれている可能性もあるが、詳細については市教育委員会の整理と報告に待つことにする。なお、本遺跡内で一九八〇年の大阪府教育委員会による試掘調査の際に、縄文時代後期に属する波状口縁の土器片も一片採集されていることをつけ加えておこう(尾上実「中野遺跡発掘調査概要」『節・香・仙』一九八一年)。

395 市教育委員会による新堂遺跡から中野遺跡にかけての発掘調査中の状況