一九八〇年末から八一年春にかけて、市教育委員会が本遺跡内で、南北二〇メートル、東西一五メートルの長方形に約三〇〇平方メートルの範囲を発掘調査したところ、八条の溝と四個の土壙および焼土塊をもつ遺構を発見した。溝状遺構の中には新しい時期に属するものもあるが、須恵器と土師器を包含した六世紀末と推定される遺構がある。遺物の中には弥生式土器、石器、土師器、須恵器、瓦質土器、瓦器、瓦、陶磁器などがあり、市内の同種遺跡から採集される品目のすべてを網羅している(『中野遺跡発掘調査概要Ⅱ』富田林市教育委員会 一九八一年)。つぎに、この調査に関する総括、とくに焼土塊に対する中辻亘氏の所見を引用しておくことにしよう。
調査の結果、六世紀末から七世紀中頃にわたる遺物をともなった遺構を検出した。検出した遺構には溝状遺構・土壙・焼土塊等がある。発掘区の関係から部分的にしか検出できなかったけれども、この時期にあたる遺構の存在を明らかにし得たのは大きな成果であった。なかでも焼土塊は、後世の削平の影響を受けて散乱した状態で検出されたものの、焼土塊付近の床土面が熱を受けて焼土化していること、焼土塊の大部分は焼きしまった赤っぽい乳白色をしており、明らかに床土面と区別できること、一部に人為的に造られたと思われる面をもっていること、また、その面に還元状態で熱をうけた痕跡がみられることなどから判断するならば、このブロック状を呈した焼土塊は、なんらかの施設の一部、つまりカマド状遺構の基底部および壁体の一部ではないかと考えられる(397)。