瓦片をもつ集落遺跡

479 ~ 480

調査当時、筆者もこの焼土塊をもつ遺構を実見して、残存した部分から性格をともに検討したのであったが、カマド状遺構とする所見は妥当と考える。なお出土した瓦片については、同概要に記載するとおり新堂廃寺の白鳳時代に属する格子目叩文をもつもの、天平時代の縄蓆文をもつものが混在している。調査区域の東北部で第五層と称した地山直上の層から出土したといい、新堂廃寺が、七世紀初頭に創建されたのち、存続していた期間を通じての集落遺跡として注目に値する。この地点と新堂廃寺とは約三五〇メートルしか離れていない。出土した須恵器が、第五章で触れた泉北の陶邑古窯群から供給されたものかどうかなど、今後集落の成因をめぐって新しい問題提起をしたい遺跡である(398)。

398 新堂廃寺に近い中野遺跡から出土した須恵器と土師器、寺院とともに存続した集落である

 なおこのほか分布調査で採集した遺物は、弥生時代に属するサヌカイト製石鏃四四個、同石槍破片五個のほか、サヌカイト片は二九一四片におよび、弥生式土器を含む土師器片は六四六五片、須恵器片は五二〇九片と実におびただしい量に達している。さらに瓦片も六五片ある。時期的な分類についてはまだ十分な検討を経ていないので省略するが、弥生時代以降七、八世紀にわたる各時期の遺物を認めるので、歴史時代初期において相当な規模をもつ集落関係の遺構を中心とするものと推測してもよいであろう。