つぎにⅡの甲田・錦織地区をみることにしよう。この地域はⅠの喜志・中野地区と同様に、羽曳野丘陵の東縁から、河岸段丘が少なくとも三段の高低差をなして東方の石川に下っていく地形で、南北に約三キロ、東西に約一キロの範囲にわたって遺跡が分散している。遺物の散布量からいうと北側は比較的少なく、南側に莫大な量が集中している。北側から始めると、甲田遺跡は南甲田の石川西岸に接する最も低い段丘上にあって、石川との比高差は五メートル程度にすぎず、遺物散布の範囲も北東から南西にかけて、長さ二〇〇メートル、幅一〇〇メートルと小規模である。実はその上のもう一段高い段丘上に現在の南甲田の集落が広く存在しているため、集落内部での分布調査が実施できなかったという事情がある。すなわちここでは古代集落の上に引き続いて現在に至るまで集落が重複して営まれてきた可能性が強い(402)。