一九六八年一〇月に、この地域内の甲田一〇九五番地、小字を御門とよぶ水田内で、市営水道の甲田浄水場拡張にともなう水道管埋設と進入路取り付け工事を行なった際、短頸坩一個と蓋杯破片が出土した。土器は表土下の茶褐色砂礫質の堆積土中に存在したといい、他に伴出遺物や遺構は認められなかった。短頸坩は高さ七・九センチ、腹径一三・八センチで、肩の張った偏球形の器体に高さ一センチの短頸をつけている。頸部から胴部にかけて軽くしぼって段をつけていて、ヨコナデしているほか、底部はヘラ削りがある。施文はなく、灰黒色硬質で胎土に石英粒をわずかに含んでいる。蓋杯も同質で、蓋は高さ四・一センチ、径一四・五センチ、身は高さ三・六センチ、径一四・九センチある。身の上方には内方に折り返して浅い立ち上りがあり、端部を薄くおさめている。蓋、身ともにヘラ削りによる調整が顕著に認められ、短頸坩とともにⅡの後半に属し、六世紀末に比定しうる(403)。
水田には約一メートルの堆積層があり、赤褐色を呈する堅硬な砂礫質の洪積層が下に横たわっていることを確認したので、遺跡は河岸段丘上に形成されたことが判明した。