錦織遺跡は近鉄滝谷不動駅の東北方にあって、第三章で詳細に説明した縄文時代前期の遺跡と重複している。縄文土器を包含した層が砂礫質の洪積台地の直上にあって、茶褐色粘土質であるのに対して、土師器、須恵器を含む層は表層の耕作土とその直下にわたっていて、層位的に上下関係にある。しかし土師器、須恵器の包含量はともにわずかで、分布の中心がどの地点にあるかはまだよく分からない。遺跡の南寄りに平安時代の蓮華文軒丸瓦を出土した錦織廃寺があるので、将来寺地の範囲と関連して遺跡の性格を検討する必要がある(405・406)。
寺池遺跡は原田遺跡の南方に位置し、立地からみると原田遺跡より約一〇メートル低い一段下の河岸段丘上を占めている。遺跡の性質は両方ともよく似ていて、寺池遺跡でも石槍をともなう後期の弥生式土器片と土師器、須恵器で、遺物の散布範囲は南北五〇メートル、東西一一〇メートルある。
錦聖遺跡は錦織の南にあたる錦聖町一帯の地域で、大谷女子大学に連なる南方の台地上にあり、西側はすぐ羽曳野丘陵に接している。遺物の散布範囲は南北九〇〇メートル、東西三五〇メートルの広い面積にわたり、東方の錦郡小学校を中心とする聖音寺の錦織集落からは、約一〇メートル高い台地の全域に遺物の散布を認める点で注目しなければならぬ遺跡の一つであろう。分布調査で採集した遺物は、弥生式土器片を含めて土師質の土器片が八一〇片、須恵器片は二六八片、サヌカイト片は二七片、石鏃一個、瓦片は七片、瓦器片は一五片と、弥生時代から古墳時代を経て平安時代ごろまで長期にわたる遺跡であった可能性を示している。