Ⅲの山中田・板持地区には山中田丸池、梅田、尾平、西板持の四遺跡があるが、いずれも石川の氾濫原ともいうべき広い平地の縁辺に位置している。まず山中田丸池遺跡は山中田の集落の南端に当たって、南方から延びてきた丘陵の西南麓にある丸池と宇奈田川との間にはさまれたごく狭い平地に位置し、遺物の散布範囲も南北一六〇メートル、東西一三〇メートルとあまり広くない。採集した遺物も土師器片一片と須恵器片四片に限られていて遺跡は宇奈田川によって堆積した土砂で埋まっている可能性もあり、今後の調査に待たねばならない。梅田遺跡もこの宇奈田川と佐備川の合流点のすぐ西に接して、おそらく当時は河岸の氾濫原にあたる沖積地上にある。遺跡の南端は鍵田橋に接し、分布調査の結果では遺物の散布地域は南北一八〇メートル、東西四〇メートルのごく狭い範囲である(407)。土師質の土器片五片と須恵器片二片を採集している。
尾平遺跡は前二遺跡に比べると遺物の散布範囲も広く、かつ採集遺物の量も多い。位置は東板持から中山にわたり、東西両側を標高一〇〇メートル内外の丘陵にはさまれたごく狭い谷地で、谷の中央を宇奈田川の細流が曲折蛇行して流れている。遺物の散布は西側の丘陵の東縁に沿って細長く、南北の長さ一・八キロ、幅はわずかに一〇〇メートルにすぎない。これと宇奈田川を介して相対する東岸の丘陵縁の平地にも長さ二〇〇メートル、幅五〇メートルの範囲に遺物の散布をみる耕作地もあるが、ここは隣接の河南町の町域に属しているので、分布調査は省略した。したがって宇奈田川の西岸地域から採集した遺物に限られるが、土師器を主とし弥生式土器片若干を含む赤褐色土器片二四四片、須恵器一八六片、瓦器一三片で、別に石鏃五個、石錐一個とサヌカイト片一〇一片がある。遺物の散布が宇奈田川に臨むごく狭い段丘地形上に認められる点で、上流から流出堆積した二次的な遺物とは考えにくく、また中山の小集落より上流は丘陵の錯綜した金剛山の山麓地帯となって、到底規模の大きな集落が古代に形成される余地のない地形である(408)。