彼方遺跡の西半の地域は弥生時代後期の遺跡と重なるため、弥生式土器片が広い範囲にわたって二〇〇片あまり採集され、それとともに須恵器片もごく少量得られた。地形的には、標高一三〇メートルあまりの丘頂から北方に細長く延びる尾根が、次第に低くなりつつ河岸段丘上に達する約三〇〇メートルほどの範囲で、この途中の標高一二〇メートル付近には、古墳かとも考えられる低い地形の隆起がある。注目すべきことはこの隆起地形のすぐ南に接した蜜柑畑の中から、陶棺とみられる暗灰色瓦質の破片が三片採集されたことである(考古二九―3)。小片であるため棺の形状、規模は明らかでないが、いずれも内面に同心円の叩目を有し、うち一片は棺身の縁辺部にあたる。陶棺の型式は強いて推測すれば屋根形に属するものといえる。
彼方遺跡の西方にあたり、また彼方小学校からは北東約一〇〇メートルのところに、南北に細長く横たわる馬背状の小丘陵があり、この北端がジョ山遺跡である。分布調査の記録によると、標高九〇~一〇〇メートルの部分が、丘陵を人為的に切り開いたように、南北の長さ一〇〇メートル、幅三〇メートルにわたり平坦地をなしている。この平坦地に限って、須恵器、土師器片と布目瓦片が散布しているといい、集落ではなくてなんらかの建物が存在したことを予想しうる。
伏見堂遺跡は東方を外子、横山の集落に画され、西方は石川河岸に臨む舌状台地の南部に位置するもので、東西四〇〇メートル、南北二〇〇メートルの範囲にわたり、一部は第三章で扱った伏見堂の縄文遺跡と重複する。散漫な散布であるが、これまでに須恵器、土師器片を採集している。北方に西野々古墳群と称する五基の円墳ないし方墳からなる後期の古墳が分布していることとあわせて考えると、両者は相互に関係を有するものかもしれない。ただし東方の丘陵上には田中古墳群があり、南方の嶽山西斜面には二〇基あまりの嶽山古墳群も分布しているので、軽々しく伏見堂の集落遺跡と西野々古墳群だけを結びつけることはできない(412)。