とくにこれらの遺物分布との関係で注目しなければならないのは、遺跡のほぼ中央の佐備川西岸にあたる下佐備に式内社の佐備神社が存在する点である。すなわちこの地域は『倭名抄』に「石川郡佐備郷」とある土地にあたり、『姓氏録』右京皇別に「佐味朝臣、上毛野同祖豊城入彦命之後也」とある佐味氏の本貫と結びつけて考える説がある。祭神を天太玉神とすることとともに、今後検討したい問題を含んでいる。
佐備川流域遺跡はこの柿ケ坪遺跡のすぐ上流に接して分布する遺跡で、高橋から古川橋に至る南北の長さ約二キロ、東西の幅は最も広いところで二〇〇メートルある。これまでの遺跡も含めていえることであるが、遺物の散布範囲の広さが直ちに集落の範囲と解釈することはできない。しかし少なくとも遺跡の散布する地域にはなんらかの遺構が地下に埋蔵されているかもしれない点だけは注意する必要がある(414)。
遺跡内から採集した遺物は須恵器片一八二片、土師器片六九七片に達し、ほかに弥生式土器とみられる破片若干と石鏃二個、石錐一個があり、また瓦器五片がある。この地域の分布調査を担当した竹谷俊夫氏は、竜泉集会所東方の草野橋付近で、土器片の包含層を発見して調査カードに記入している。これによると厚さ二〇センチ弱の耕土の下に、約四〇センチの赤褐色を帯びた堆積土があり、中に土師器片と瓦器片をほぼ同一層位で含んでいる。この下はやや小石混じりの赤褐色の堆積土が二〇センチあり、砂礫質の地山に至るという。この堆積状況からみると、遺物は佐備川の氾濫に際して、多少流されつつ広い分布を呈する結果になったと推定しうる。
佐備川遺跡は第三章の縄文遺跡の項で扱った同名の遺跡と重複するので、記述を省略する。須恵器片と土師器片のわずかな散布があり、その後の踏査によると分布範囲はなお若干広がるようである。