さて最後のⅥ別井地区を見ることにしよう。この地域は本市域が東方の河南町に向かって最も突出した場所で、千早川の東に沿う比高差約二〇メートルの台地の上にある。南別井と北別井とに分かれているが、遺物はこの両別井にわたって広く分布し、南方へさらに延びて河南町の地域内にもおよんでいると考えられる。分布調査は主として南別井に対して行ない、須恵器片一五五片、土師器片約二〇〇片のほか、弥生式土器片若干と石槍一個、石鏃一四個、サヌカイト片二四六片を採集した。これらの事実からすると、弥生時代から歴史時代に続く集落遺跡が、この地域内にあるものと予想してよいであろう(415)。
一九七六年二月に北別井を踏査したところ、同地区内の仲井音吉氏宅北側の水田東縁に側溝を設置する工事が行なわれていて、長さ約三〇メートルにわたり約一メートルの深さに崖が削りとられ、包含層が露出しているのを見出した。この断面は南北の方向にあり、約二〇センチの厚さの黒色耕土下に、黒褐色粘土質の包含層が存在して、その下は赤褐色砂礫質の地山となっていた。この部分では南北両方に長さ五メートルないし一〇メートルの浅い土壙の落ちこみが、緩やかなカーブで地山上に認められ、包含層の最も厚いところは四〇センチに達していた。この土壙ではさまれた中央の隆起した地山面には、広く礫石がおおっていたが、はたして人工による施設であるのかどうかはよくわからない(416・417)。