石川谷中流域における歴史時代初頭の集落分布との関係で、注目しておかねばならぬ問題がひとつある。それはこの石川谷中流域の中で、大阪府下では最も古い飛鳥時代寺院のひとつである新堂廃寺との関係である(419)。当時の寺院は、文化の先進地帯であった畿内を中心としてまず成立した。したがって寺院の成立のためには、文化の荷坦者としての豪族と、そのための経済的基盤を形成した人びとの存在とが、前提として必要であるといえよう。前章で、新堂廃寺の創建とかかわりを持ったとみられる豪族が、おそらくお亀石古墳の被葬者であろうという関係を明らかにしたが、この在地豪族を支えていたのが、この石川中流域に分布する集落であったとみられる。
寺院の造営は古墳の築造とは本質的に異なる新しい事業であった。それはたんに従来の日本になかった新しい建造物の招来という意味だけではなくて、全く異質の宗教思想をその地域に導入し、紹介した点にあるといえよう。外来系の宗教思想を抵抗なく受容し、存続させるためには、開かれた社会的基盤が必要である。開かれた社会的基盤とは、この石川谷に関する限り、朝鮮半島、とりわけ新しい宗教思想―仏教を伝授する母胎となった百済との国際交流であった。百済と石川谷との国際的なつながりを物語る記事が『日本書紀』の中に見える。しかもそれは石川谷中流域の集落を舞台とするものであったといえば、内容の持つ重要性もはっきりするであろう。