当時の集落が、どのような地名を冠して呼ばれていたかは、考古学の資料からでは全くわからないが、『日本書紀』の中に石川の中、上流域では、文献によってさかのぼることのできる最も古い集落の名が現れている。具体的な内容については古代編の記述に譲るが、『書紀』敏達天皇一二年条に、百済国から「日羅(にちら)」と称する人物が来日した説話が記載されていて、「石川の百済の村」「石川の大伴の村」「下百済(しもつくだら)の河田(こうだ)の村」の地名が見える。『書紀』はこの記事を敏達天皇一二年癸卯の条に載せていて、年代的に信頼できるものとすると、西暦五八三年をあてることができる。内容的に複雑な背景をもつ史料であるが、その信憑性の点をここでは問題にしないでおくことにしよう。石川百済村については、九三〇年代に成立したとされる『倭名類聚抄』の中に、「河内国錦部郡百済郷」とある地名と対比できるので、従来から多くの識者が、富田林市南部から河内長野市北部にわたる地域と推定してきた。すなわち現在の錦織を中心とした地域である。これに対して石川大伴村は本市域内に地名が現存する北大伴・南大伴と解され、下百済河田村も前述の百済村から石川のやや下流にあたる甲田の地域、すなわち北甲田・南甲田・宮甲田をあてている。これらがそれぞれ「村」として登場する以上、集落を意味したに違いなく、ひいてはその集落の位置は、分布調査の結果と対照して検討することができるであろう(420)。