この観点から前節の遺跡分布地名表をたどると、Ⅱの甲田・錦織地区の中で11錦織南遺跡が石川百済村となんらかの関係を有していた可能性がある。もちろんその周辺の錦聖遺跡や錦織遺跡をこれに含めて考えてもよい。同様に下百済河田村は5甲田遺跡と対応させてもよく、本来の河田村はさらに一段高い西側の台地上に位置していたとみられることは、すでに前節で指摘したとおりである。これに対して石川大伴村については分布調査の遺跡として示しえないが、その理由は現在の北大伴と南大伴に比定できるところからも明らかなように、古代村落がそのまま現在の集落に発展して重複しているためであろう。またこれら古代村落名の中で、とくに二者についてわざわざ「百済」の国名が集落の名称として冠せられた理由としては、当然、当時の朝鮮三国の中の「百済国」との関係にもとづいていることは想像に難くない。おそらくその集落が成立したいきさつの中で、百済から渡来した集団が居住民として加わった事情を推測することもできよう。