たとえば前述の日羅は、今の熊本県にあたる火葦北国造刑部靫部阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこおさかべのゆけひありしと)という長い名前の人物の子で、百済の宮廷に仕えていた。敏達天皇は任那の宮家(みやけ)を再興するため日羅を日本に招いたが、百済と日本との策謀の間にあって、百済人の従者達に暗殺されてしまった。天皇は日羅を葬り、その妻子を石川の百済村に、水手らを石川の大伴村に居らしめ、暗殺者らを下百済の河田村で推問したとある。関係者らを石川の各地に分散配置させたのが大伴糠手子連(おおとものあらてこのむらじ)であったといい、大伴の地名からもこれらの地域が当時はなお大伴氏の勢力下に置かれていたことは明らかである。大伴氏は六世紀ごろに軍事の職掌で皇室に従属した家柄で、六世紀前半の朝鮮半島諸国との外交交渉で中心となった豪族でもある。もっとも大伴氏は五四〇年の任那四県割譲の失策を問われて急速に勢力を失ったと『書紀』にあり、七世紀初頭には地域支配の勢力も交代していたことが察せられる。したがって考古学上の問題を考える前提として、石川谷が百済系渡来集団の居住地であり、七世紀の段階でこれら地域集団を掌握する地位を占めていたのは、大和の蘇我氏と同系の河内南部の一支族であると推定するわけである。