仏教伝来をめぐる問題

503 ~ 504

仏教の公伝時期を『日本書紀』では欽明天皇一三年の壬申(五五二年)とし、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起では戊午(五三八年)としていて、ちょうどこの頃の継体・安閑・宣化・欽明諸朝の内乱をめぐる『書紀』紀年の錯簡と並んで、なかなか真相の見極め難い混乱がある。ただここで言えることは、百済から仏教が公伝した時に、直ちに寺院を創立して仏像が安置されたわけではなく、崇仏をめぐる宮廷内外の激しい紛争があった点であろう。『書紀』は百済の聖明王が西部姫氏達率怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして、金銅の釈迦仏、幡蓋、経論などを送ってきた時も、欽明天皇の宮廷では大臣の蘇我稲目と大連の物部尾輿、中臣鎌子らの間に崇仏論争が生じたと記している。崇仏派の稲目は大和飛鳥の向原にあった自分の家宅を喜捨して寺とし、私的に礼拝していた(422)。この後も崇仏派と排仏派との対立は続くが、宮廷内部で蘇我氏の勢力が次第に伸張するにつれて、公然と仏殿や塔の建立が行なわれたという。たとえば五七七年(敏達七年)には大別王が百済から帰国する際に、経論とあわせて律師、禅師、比丘尼、呪禁師らを同伴し、同時に造仏工と造寺工の二人も渡来してきて、難波の大別王の寺に住んだという記事も『書紀』に現れるが、大別王の素姓とともに具体的な内容は明らかではない。

422 北方から見た明日香全景、中央が飛鳥京址と飛鳥寺、右手中央の丘陵が甘橿の丘