四天王寺造営をめぐる説話

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五八七年(用明二年)は天皇の死去を契機として物情騒然とした年で、蘇我氏ら親百済グループを組織した開明的な崇仏派が、守旧派の物部氏に擁立された穴穂部皇子を暗殺し、続いてクーデターによって物部守屋を倒した。その時、蘇我氏らの側に立った聖徳太子は、白膠木(ぬるで)の木を切り取り、仏法の守護神の四天王を早速刻んで頭髪に結びつけ「もし仏法の法力で敵に勝てれば、護世四天王のために寺塔を建立しましょう」と、蘇我馬子ともども願を立てたという。白膠木とは別名かちのきともいうウルシ科の雑木で、古くから霊木として仏像の心木などに用いられたものである。この時太子は一四、五歳にしかすぎない点で、到底歴史的事実とは解しがたいが、説話の意味するところ、まさに古来の土着神をしりぞけて新来のいわゆる異国の蕃神たる仏を登場させるという思想上の転換を思わせる。仏教興隆の発端がたんに外来文化の伝播による流行ではなくて、積極的な導入によっていることから、新旧豪族勢力の交代をきっかけとして仏教による思想的革新をはかったといえるであろう。たとえば明治維新の政治変革を社会思想の面からも決定的に裏づけるために、廃仏棄釈の運動にまで拡大させた為政者の動きと共通するものがある。この戦いで物部氏は敗れて滅亡した。