蘇我氏勢力が宮廷内外で不動の地位を得た翌五八八年(崇峻元年)、百済から恵総(えそう)(恵衆)ら六人の僧が仏舎利を携えて来日し、同時に太良未太(だらみだ)、文賈古子(もんけこし)という寺院建築の技術者、白昧淳(はくまいじゅん)という金属鋳造技術者、麻奈文奴(まなもんぬ)、陽貴文(ようきもん)、㥄貴文(りょうきもん)、昔麻帝弥(しゃくまたいみ)などの名をもつ瓦技術者、仏画を描き銘文を撰する知識をもった白加(びゃくか)らも到着した。初めて本格的な仏殿建築の建立が技術者の来日によって可能になったわけである。蘇我馬子は飛鳥の小盆地中央に居住していた渡来系氏族、飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ)の祖先にあたる樹葉(このは)の家宅を取り壊して、その場所に自らの氏族の私的な信仰のために法興寺を造った。これが飛鳥寺の名で知られる寺院の創建である。