創建時の建物の構造細部は全くわからないが、一九五六年と五七年の両年度にわたる発掘調査によって、南を正面として、南北一四〇メートル、東西一一〇メートルの範囲に主要建物を配置した伽藍遺構が確認された。この中で、最も早く成立して中心をなしたのは塔で、後になってコの字形に囲むように、北側に中金堂、東側に東金堂、西側に西金堂の建物が営まれた。塔の南には中門があり、中門から伸びた回廊がこれらの建物を方形に取り囲んでいた。さらに回廊外の北側には講堂があり、中門の南側には寺域を画して南門が構えられていたと考えられる(423)。飛鳥寺の創建がほぼ『日本書紀』記載の年代と成立事情にしたがうべきものであることは、寺址出土の軒丸瓦をはじめとする屋瓦に、百済国都扶余(プヨ)から出土するものと共通する要素がはなはだ強いところからもいえる。いわば日本の仏教伽藍は、この飛鳥寺を嚆矢として編年しなければならないものであろう。