さて大和の飛鳥寺の創建を伽藍建築の初例とするならば、つぎに摂津の四天王寺がいつ成立したかをみることにしよう。現在、大阪市の中心を南北に貫く上町台地上に、四天王寺が営まれたのはもとより飛鳥時代のことである。ところが『日本書紀』には、用明二年の物部守屋の乱にあたって、聖徳太子により発願され、推古元年に難波の荒陵の地に工を起こしたとあるのに対し、『上宮聖徳太子伝補闕記』には玉造の東の岸の上にまず営み、後に荒墓村に移建したとある。このように創建の事情に関して若干の問題を残しているものの、伽藍配置が、中門の北に塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門と講堂を結んで回廊を長方形にめぐらしている点で、飛鳥時代寺院の典型的な例をなすものといえる。中門、塔、金堂を同じ中軸線上に置く伽藍配置は、百済の扶余を中心として多く認められ、いわゆる「四天王寺」式は百済様式を最も忠実に受容したものである(424)。ただ近年の発掘調査で新たに加わった例をみると、韓国中部の百済時代寺院址でも、日本の飛鳥時代寺院址でも、伽藍配置は画一定形的ではなく、細部に関してかなりヴァリエーションを持っていたらしいことが次第に判明してきている。