新堂廃寺の呼称は一九三六年に石田茂作氏により『飛鳥時代寺院址の研究』の中で用いられたのが初見である。新堂廃寺の所在地そのものは小字「堂ノ前」を中心としているが、富田林市の市制施行による合併以前に、この地域が新堂村に属していたところからきている。もっとも新堂の名称は寺院と無関係ではなく、一説には古く「千堂」と称したことに発しているという解釈もある。しかしむしろ、新たに寺が建立されて集落が移動した段階で、この新しい寺をかつて存在した古い寺院に対して「新堂」と名づけたものと思われる。そして古い寺院とはすなわち新堂廃寺を指すものにほかならない。
新堂廃寺が、その出土屋瓦の年代から飛鳥時代の創建として、河内で最も古い寺院の一つであってみれば、その寺名は名刹として著名なはずである。ところが寺名として明らかに伝えられていない。たとえば飛鳥時代創建の寺数は稀少であったと考えられるから、『日本書紀』に記載されていてもよいと考えられるにもかかわらず、該当する寺名は見当たらない。一方、地元においても寺名が忘却された理由は寺が早く衰微し、中世の頃にはほとんど消滅していたからであろう。後述するように、飛鳥時代に創建された伽藍は奈良時代に一度失われ、寺地を新たに削り直して再建したと推定される(425)。この伽藍は平安時代には修補されることなく、鎌倉時代にはどの程度旧観を保っていたのか明らかではないが、寺院の東に接して小規模な堂宇が新たに建立された形跡がうかがわれるに過ぎない。おそらく室町時代以降に存続したとすれば、その実態はもはや寺院伽藍と称するに値しないささやかな仏堂一宇のみであったであろう。集落もまたこの頃には東方の現在の若松二丁目、三丁目付近に移動して、東高野街道に沿う新しい集落を形成していたと思われる。