新堂の名の由来に関しては注目すべき所伝がある。この地域は古くは雑居(さわい)郷と称し、もともと周辺に寺院が多かったところから「千堂村」の名を有するようになったという(『郷土史の研究』南河内郡東部教育会 一九二六年)。同書には新堂村成立の事情について「今なお地名に応感寺(注、ヲカンジに対する宛字)、妙楽、山名に遊道寺、観音堂山、寺山、畑名に堂ノ前、焼ケン堂等の名を存し、また付近田畑のところどころより布目の古瓦の破片出づることの少なからざるを見ても推せらる。しかるに天正年間織田信長河内の地頭畠山具教を討ちし時、前記里田(さった)の地一帯は兵火にかかり、堂塔伽藍もみな焼失す。ここに村民相議りて、まず現地の北端に、焼け残りの材木を以て、新たなる堂を建立し、焼け残りの仏像を安置して宝海寺と名づけ、続いてその南方に街衢(がいく)を画して民家を建て、もって一邑をなし」とある。
この邑区には北町、会所町、庄屋町、南町のそれぞれ一区画と、別に大工町とがあった。地元の高橋家文書の中に、この「大工町」の由来は、もともと大和法隆寺を在所としていた八名の大工が、聖徳太子の没時に今の太子町磯長にある太子墓の廟を造営するために移住し、のちその中の六名がさらに「大工町」に来住したことによるとある。もとより近世文書に収載された所伝であるので、信憑性は保証しがたいが、聖徳太子墓の廟造営のために大和斑鳩から移住があったこと、さらに河内で新堂廃寺創建のための再移住があったことを臆測すれば、まことに興味深い。しかも寺院造営の工人達が中心となって集落を形成し、のちに大工町と名づけて六人衆となったという所伝は、民間伝承ならではの具体的内容があって印象に残る。