一九四一年に藤沢一夫氏が発表した「摂河泉出土古瓦の研究」の中では、この新堂廃寺を「河内石川廃寺」と称して、四天王寺の「摂津難波寺」と同列に位置させているが、『日本書紀』敏達天皇一三年条に見える「石川宅」あるいは「石川精舎」をとくに深く意識してのことではなく、地名からかりに名づけたものとみられる。
一九六〇年に本寺址所在地一帯を府営住宅地として開発する事業に並行して、大阪府教育委員会による全面的な発掘調査が行なわれた。その際、藤沢氏は寺域の北西に接する羽曳野丘陵東縁の谷口に営まれていた灌漑用水池を古くから「ヲガンジ」池と称してきたことに改めて注目した(426)。すなわち寺址の隣接地に残る「ヲガンジ」とは、かつて「ヲガン」寺と呼んだ寺名を伝承するものではないかと解したのである。