さらに「ヲガン」寺の名は、たんにこの地で発案されたものではなく、百済時代に「烏含」寺と呼称した寺院が百済国内にあったことを指摘して、その寺名を日本で踏襲したものかもしれないと提唱したのであった。烏含寺は現在の韓国語での読み方からすると「オアムサ오암사」であり、日本では「ウガンジ」であって、なお問題を残すが、検討すべき価値を失わない。その後九州大学教授田村圓澄氏は、古代日韓仏教文化の交流の過程で、百済寺院の寺名が日本の飛鳥時代建立寺院の寺名に襲用された例はありうることとして積極的に賛同した(田村圓澄『飛鳥白鳳仏教論』一九七五年)。この場合、寺址の近傍に「ヲガンジ」の地名を残すことと、「ヲガンジ」を「烏含寺」と解して百済と日本との寺号に密接な関係を認めることとは、二つの異なる次元に属する事柄である。前者を「ヲガン」寺と解釈するのは妥当であろう。後者について、現在韓国忠清南道保寧郡嵋山面聖住里(チュンチョンナムドポリョングンミサンミョンソンジュリ)にある北岳烏含寺との関連を認めるならば、この百済の烏含寺が西暦六一五年に創建されたことから、日本の烏含寺も六一五年以前にさかのぼらないという重大な結論を認めることになる。筆者としては新堂廃寺の創建の時期を六二〇年代と推測するので、百済と日本との間に寺名にもとづく結びつきを考慮しても矛盾は生じないと思う。