さて新堂廃寺は、正方形基壇をもつ南方建物と、その北側に中央建物、さらに北方に北方建物を配し、中央建物の西方には西方建物と称する建物が存在していて、少なくとも四棟の建物群からなる伽藍配置であったことは、後節の「新堂廃寺と出土屋瓦」の項で解説するとおりである。一つの解釈として伽藍が南向きであったとみると、四天王寺式に塔(南方建物)、金堂(中央建物)、講堂(北方建物)と、南北方向の中軸線上に主要建物を配置したものとなり、西方建物はこれらに付属した別の建物となる。これに対して西方建物を主要伽藍の一部と見做すと、伽藍は東向きとなり、伽藍配置は川原寺に類似したものと解釈できる。一九六〇年の大阪府教育委員会の調査を担当した浅野清氏は、建築史の立場から両者を詳細に検討して、どちらかといえば前者の四天王寺式伽藍配置をもつ南向きの伽藍である可能性が強いことを強調した(427)。
一九六一年に新堂廃寺の調査報告書が刊行されてから二〇年余が経過しようとしている現在、この四天王寺式伽藍配置に重きをおいた結論に対して、再考をうながすような他寺院址関連遺構の調査が行なわれたということを聞かないし、また有力な異論も唱えられていない。したがってこれを前提として改めて推測を試みると、奈良時代に再建されたこの伽藍配置は創建当初の状況を物語るものと考えられる。飛鳥時代創建時の伽藍配置の遺構自体は、白鳳時代以降の整地工事で削り去られた結果、全面的に失われてしまった。しかしその直後に再建された伽藍配置が、中軸線上に南面して塔、金堂、講堂を配した古式の四天王寺式に属するものとすると、再建に際して創建時の方式をそのまま踏襲した可能性はきわめて強い。