このことは、摂津の四天王寺がたびたびの罹災のあと再建を重ねてきたにもかかわらず、典型的な伽藍配置を守り続けて現在に至っていることと似ている。そしてそれは、さかのぼると、飛鳥寺をはじめとして飛鳥時代の初期寺院が、百済など朝鮮半島三国からの直接あるいは間接の影響下に創建されたという事情をよく反映したものであった。百済国の最末期の宮都扶余を中心とする地域には、軍守里(クンスリ)廃寺、定林寺(チョンリンサ)址(428)、金剛寺(クンガンサ)址などこの種の伽藍様式が多く認められ、中門と金堂との間に一基の塔を配置するところから「一塔式伽藍」と称している。