石田茂作氏は『総説飛鳥時代寺院址の研究』の中で、同時代建立寺院に関する文献として『日本書紀』をあげ、それにつぐものとして法隆寺と大安寺の『伽藍縁起并流記資財帳』を指摘した。『伽藍縁起并流記資財帳』というのは、寺の由来と寺に伝わる什宝や所領などの細目の記録で、両寺は七四七年に寺三綱所で資財帳を撰録して官に提出した。『書紀』には仏教信仰の由来と寺院造営に関して具体的な記載があるが、とくに推古天皇三二年条に「九月甲戌朔丙子、校二寺及僧尼一、具録二其寺所レ造之縁、亦僧尼入道之縁、及度之年月日一也。当二是時一、有二寺卌六所、僧八百十六人、尼五百六十九人、并一千三百八十五人一」とある記事が四六カ所の寺院の存在を示す手がかりとなる。ただ上述の文献に記載する寺名は一九カ寺にすぎないので、石田氏は飛鳥時代建立寺院を文献と考古学の両面から解明しようとしたのであった。いわゆる「聖徳太子四十六院」の問題については、一三世紀中葉に、僧顕真の古今目録抄の中で「四十六箇寺院」の考定が試みられたのをはじめ、法空抄・私注抄・重懐抄・松誉抄などが諸説を出していて、寺院名に関しても一致していないという。諸書について詳細な検討を加えた石田氏も、「かうした鎌倉時代以降の太子建立四十六院説の考究も、飛鳥時代建立寺院の決定に関しては多く徒労であったのを否み難い」と結論を出さざるを得なかった。