これに代わる研究方法として石田氏は「遺物遺跡による当代建立寺院の推定」を各地に行ない、同書の中で大和国二五、山城国四、河内国五、和泉国四、摂津国三、伊賀国一、備中国一、伊豫国二、豊前国一の四六カ寺を飛鳥時代の寺としてあげた。分布の中心が大和にあり、寺院数の九〇%が五畿内に集中することをこの所在地数からも知ることができる。もっともその後四〇年に近い歳月を経て、石田氏の推測した諸寺院と寺院数に再検討を迫る新資料も若干加わったが、今ここでは触れないでおくことにしよう。この中で河内国の五カ寺とは、西琳寺・新堂廃寺・野中寺・衣縫廃寺・大県廃寺で、その分布状況も河内南半の富田林市・羽曳野市・藤井寺市・柏原市に集中していることにまず注目したい。しかも本市域の新堂廃寺が、屋瓦の瓦当文の示すところからみて、最も古く、かつ百済的要素を濃厚に帯びているといえる。
一九四七年に福山敏男氏は「上代寺院の伽藍配置」と題する講演を行ない、一九五一年にその概要を「聖徳太子の寺院」として発表した。これは石田氏が飛鳥時代の寺院を地域的分布、寺院の規模、出土古瓦、建立氏族の面から考察したのに対して、その成果を踏まえて伽藍配置の様式を分類し、出土した軒丸瓦の型式から大胆な編年を試みようとするものであった。福山氏は飛鳥時代建立寺院としてまず五五カ寺をあげた。石田氏の四六カ寺に比べて九カ寺が増加しているが、大和国二九、山城国四、河内国六、和泉国四、摂津国三、播磨国一、伊賀国一、備中国一、近江国二、尾張国一、伊予国二、豊前国一からなっている。すなわち大和国での増加のほかに畿内周辺の諸国例が加わっている。なお河内国での増加は新たに八尾市の渋川寺を含めたためで、他の五例に異動はない。