つぎにこれら諸寺院の中で、出土した軒丸瓦の型式の明らかな四四カ寺を取り上げ、創建時期を推定する図表を描いているのは興味深い試みといえよう。福山氏はこの前提として、まず創建時期の明らかな飛鳥寺と山田寺とで飛鳥時代の上限と下限を決定し、飛鳥寺の創建着手の時期を五八八年、山田寺のそれを六四一年とした。さらに斑鳩寺(若草寺)の焼失を、聖徳太子の上宮王家の滅亡した六四三年とみて、その後新たに寺地を定めた法隆寺西院、とくに金堂の当初の瓦を七世紀中頃と考え、法隆寺創建着手の時期を六五五年と推定した。氏は一寺の創建期間を二〇年と仮定して、たとえば飛鳥寺の創建には五八八年~六一〇年、法隆寺には六五五年~六七五年とする。飛鳥寺についでは山城の高麗寺が古く、続いて大和の定林寺という順になる。寺院の中には各地で同一時期に創建の進められたものがあるはずであるから、豊浦(とゆら)寺・奥山久米寺・平群(へぐり)寺・野寺・若草寺は六二〇年~六四〇年、法輪寺・四天王寺・中宮寺・横井廃寺・葛木寺・巨勢寺は六二五年~六四五年、豊田廃寺・法起寺・久度寺・穴闇(なぐら)寺・片岡王寺・新堂廃寺・広隆寺・法隆寺東院は六三〇年~六五〇年となるわけである(431)。