それでは百済の烏含寺とはどういう寺院であったのであろうか。それを紹介する前に、百済の仏教と寺院の成立について簡単に触れておかなければならない。百済はもともと古く三韓の中の馬韓五十余国の一つであった伯済によって建てられた国である。最初は朝鮮半島中部の、現在韓国ソウル付近の漢城(ハンソン)に都をおいたが、次第に半島の西南部に勢力を拡大した反面、北方では南下する高句麗の圧迫をうけて、五世紀の後半に忠清道公州(コンジュ)にあたる熊津(ウンヂン)に都を移し、のち五三八年に錦江(クムガン)下流の泗沘(サビ)(現在の忠清道扶余)に再転して六六〇年に滅んだ(432)。
漢城時代の三八四年に高句麗を経由して胡僧から仏教を伝えられたが、当時の寺院址としてまだ明瞭なものは発見されていない。熊津時代の五、六世紀の交になって、公州に大通寺(テドンサ)址など本格的な寺院の創建が始まったとみられるものの、公州を囲む周辺の山の中腹斜面に石窟をともなって建立された寺院址がいくつかあって、これらを平地寺院に先立つものとする説もあり、百済の初期寺院址についてはまだ問題が残っている。したがって百済寺院が多数創建されたのは、つぎの泗沘時代の約一二〇年間で、現在の扶余を中心に分布していて、百済地域全体を通じてみると約六〇カ寺の存在を指摘することができる。
扶余は低い丘陵地帯に囲まれた広い平地で、その中央を幅広く錦江が半円形に蛇行して流れ、天然の防壁をなしていて、百済時代には恵まれた都城であったと思われる。錦江はこの付近では白馬江(ペンマガン)とも呼ばれ、江に臨んで屹立する扶蘇山(プソサン)の南麓を中心に王宮と寺院が並び、さらに南に延びる台地縁に沿って伽藍が配置されていた姿は、まさに輪奐の美を連ねたものとして壮観をきわめたものであったであろう(433)。この扶余には扶蘇山廃寺、天王寺(チョンワンサ)址、定林寺址、東南里(トンナムリ)廃寺、軍守里廃寺など一七カ寺の存在が知られている。百済から日本に寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工などが渡来して法興寺すなわち飛鳥寺の造営を開始したのは五八八年であったことはすでに述べたが、聖明王によって熊津から泗沘に遷都してちょうど五〇年後にあたり、百済としても都城の内外に寺院を創建する事業が一段落して、造営の工人達にも余裕が生じた段階である。