さて烏含寺の名は『三国史記』に百済の「北岳烏含寺」として現れ、のち新羅統一時代になって寺名を「聖住寺」と改めた。寺の沿革については「崇厳山聖住寺事蹟」によって、隋煬帝大業一二年乙亥に百済の烏含寺として創建されたことが記されていて、大業一二年を一一年乙亥の誤記とみると西暦六一五年にあたっている。市内の新堂廃寺の本来の寺名を「ヲガンジ」とみて、これに「烏含寺」の字をあてて百済の烏含寺と結びつく由緒を想定すれば、日本の烏含寺の命名は六一五年以前にはさかのぼらず、もしこれを創建時の命名とすると、日本の烏含寺の創建年代は六一五年以降と推定する確実な根拠を得たことになる。すでに述べたように日本の初期寺院の創建をめぐる編年と、新堂廃寺から出土した瓦当の様式からみて、おそらく創建時期は六二〇年をさかのぼることはないので、これら両者を通じての創建年代の推定は矛盾しない。
烏含寺、別名聖住寺と称する寺址はこの扶余から西北西に位置し、直線距離では二五キロ程度であるが、実際には道路が曲折していて四〇キロに近い。この所在地は韓国忠清南道保寧郡嵋山面聖住里で、筆者は一九七五年(昭和五〇年)九月の末に、田村圓澄九州大学教授と毛利久神戸大学教授に同行して寺院址を踏査した(435)。