寺址をめぐる地形

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寺院址は市内緑ケ丘町にあり、近鉄富田林駅の北方約六〇〇メートルで、一九五九年夏までは水田となっていたが(考古四九)、その後府営住宅用地として開発されて、現在では主要伽藍を配置していた中心地域を広場として残しているにすぎない。地形についていうと、西方の羽曳野丘陵を背景に広がった標高六七メートルの台地上を占め、東方に向かい緩やかに傾斜する開けた眺望をもち、段丘上の新堂遺跡、中野遺跡を経て石川に達している。台地の中央にあって、とくに小字「堂ノ前」一六一一、一六一二番地に属した地域は周辺の水田より約一メートルも高く、南北の長さ一三〇メートル、東西の幅一二〇メートルの長方形をなしていた。遺跡は水田として利用されてきたので、一九五九年に試掘調査に着手した際も、地表の地形を通じて基壇址など寺院の遺構を推測する手がかりは何一つ残っていなかった。