屋瓦の堆積と遺構

528 ~ 529

試掘調査の結果、長方形台地上の全域にわたり、飛鳥、白鳳、天平および鎌倉期の各種屋瓦片が、地表下三五センチないし一メートルの深さで包含されていることを確認し、寺域の範囲をほぼ限定することができた。ただし伽藍遺構に関しては、部分的なトレンチしか設定できなかったため、調査の終了時になってようやく寺域の西寄りで、瓦積基壇が長さ一二メートルの範囲にわたって南北の方向に遺存していることを知りえたにすぎない。この基壇遺構は翌年の大阪府教育委員会による本格調査の結果、西方建物の西側基壇にあたることが判明した。ただし基壇に用いられていた平瓦の調整に、格子目叩文のほか縄目叩文を混じていた事実から、基壇の年代は創建時ではなく奈良時代まで下ることが予想された(438)。素弁蓮華文をもつ飛鳥時代の軒丸瓦は発掘区域の南端に集中し、再堆積した包含層中に雑然と包含されていて、建物遺構と同一面上に遺存していた形跡がなく、試掘調査当時その理由の解明に苦しんだが、翌年度の本格調査によって初めてその理由は判明した。

438 新堂廃寺瓦積基壇実測図