翌一九六〇年の調査は、府営住宅建設用地の中に、府との協議で伽藍建物の主要部分を含むものとして最少限残した空地をほぼ全面発掘する形で進められた。その結果、わずかな痕跡をたどって明らかにできた伽藍遺構は、意外なことに当初推定したよりもやや東の方に偏していて、建物の東の部分がすでに建てられた府営住宅で占められていたのは遺憾というほかはない。もっとも、発掘によって飛鳥時代の屋瓦は大量に出土したにもかかわらず、飛鳥時代の遺構そのものは早い時期に全く失われてしまっていた。その理由は寺が創建されてのちに、大規模な整地工事が行なわれて建物基礎自体が消滅する結果となったからである。
その状況について建築史の立場から検討した浅野清氏は、丘陵東麓の傾斜した自然地形の復原的考察を試みたのち、つぎのように説明している。
今回の調査地域内の所見では、地山は八〇メートルの範囲で一・五メートル程度下がっており、その傾斜地の南部を埋め立てて整地し、ほぼ現在のような平坦地を作っていることが判り、その埋立土中には飛鳥時代の瓦のみ含まれていることが明らかになった。したがってこの埋立整地上に立てられている西方建物と南方建物は飛鳥時代に創建されたものではなく、奈良前期を下らない頃に再建されたものとなる。東方の中央および北方建物は地山の直上に築かれているが、その周辺の出土遺物から、やはり奈良時代前期に属することが知られる。ただし西方建物には焼けた痕跡が基壇瓦積の直下に及んでおり、瓦積中に奈良時代後期の瓦を含むので、焼失後奈良時代後期に再建されているとしなければならない(浅野清「遺構の建築的考察」『河内新堂・烏含寺跡の調査』一九六一年)。