白鳳期に四棟の建物

530 ~ 531

氏はこの前提のもとに遺存した奈良時代の基壇の痕跡から、細部の建物の平面をできる限り詳細に考察した。まず平坦な台地上には奈良前期、すなわち白鳳時代に建物が再建され、四棟の建物を配置していたことが判明した。南方建物、中央建物、北方建物、西方建物とかりに名づけられたものがこれである(439)。このうち南方建物の基壇は東西、南北ともに一三・三五メートルという正方形の平面で、まず塔址の可能性がある。中央建物は南方建物から八メートル北へ隔たって、東西一五・九〇メートル、南北一四・一〇メートルの規模をもつ基壇で、北方建物はこれから一四・三〇メートル離れて、東西ほぼ二四メートル、南北ほぼ一五メートルの規模と推定された。西方建物は中央建物から八メートル西方へ離れて、東西一六・四二メートル、南北二七・六メートルあり、この四棟の建物の中では最も大きい。

439 新堂廃寺主要建物配列図 (大阪府教委報告書による)