白鳳期以降の寺院の増加

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七世紀初頭に新堂廃寺が創建されたころは、全国的にみてもまだ寺院数は少なく、地域的にも限られていた。ところが七世紀の中葉を過ぎると、寺院数は次第に増加し、分布も北九州から東海地方にかけて約五〇ヵ所の寺院址が知られるようになる。さらに下って八世紀の奈良時代までを含めると約七〇〇ヵ寺、北は秋田県から南は鹿児島県にまで分布するようになる。

 石川流域とその周辺に関してみても、飛鳥時代末から白鳳、天平期にかけて創建されたとみられる寺院を、市域に属するものを除いてあげてみると、二〇ヵ寺に近い。すなわち北から船橋廃寺・玉手廃寺・片山廃寺・河内国分寺・同国分尼寺・田辺廃寺・原山廃寺・衣縫廃寺・土師寺・野中寺・葛井寺・五十村廃寺・西琳寺・河内飛鳥寺・善正寺山廃寺・弘川寺・観心寺などである(444)。興味があるのは、大和川と石川の合流点を中心とした半径五キロの圏内にこれらの寺院の大半が包括されてしまうことで、寺名をあげなかった大和川以北の柏原市、八尾市を含めるとその数はさらに多くなる。

444 南河内の石川谷周辺に分布する飛鳥~平安時代の主要な古代寺院址、これらの中で石田茂作氏は西琳寺・新堂廃寺・野中寺・衣縫廃寺・知識寺(大県廃寺)を河内の五カ寺としてあげた

 本市域では新堂廃寺に加えて、白鳳~平安期にかけて細井廃寺・錦織廃寺・龍泉寺などがあげられる。