細井廃寺からわずかに五〇〇メートルほど離れたところに錦織廃寺がある。近年まで国道一七〇号線の西側に基壇状の遺構が残っていた。同廃寺から出土した複弁蓮花文は、花弁と中房がごく浅い型で表現され、型式化の著しいことと、周縁が幅広い素縁の突出からなる点で、細井廃寺のものよりさらに年代の新しい平安時代のものである。ただし系譜的に川原寺式に属し、その意味から細井廃寺との関係を推測することもできると指摘するにとどめよう(考古六二―1)。
さて、ここで両寺院址に関連して取り上げておかねばならぬ資料に塼がある。塼とはわかりやすくいえば、粘土を焼いて造った煉瓦のことである。両寺院址から出土したのはいずれも破片にすぎないが、表面に同心円の叩目をもち、須恵器のように黝黒色の堅緻な焼成で、どうやらこの近傍の同じ窯で焼成されたものらしい(考古六二―2)。そして、すでに前章の終末期古墳の中で触れたように、細井廃寺から西方へわずかに五〇〇メートル離れた羽曳野丘陵上にある南坪池古墳からも、これと全く同じ塼の破片が出土している。同古墳については大阪府教育委員会によって試掘調査が行なわれ、花崗岩の切石を布積した終末期の横穴式石室であることが確認されたので、これらの塼はもともと石室内の床面などに使用してあったものと考えられる。このことから、細井廃寺とほぼ同時期に南坪池古墳が構築されたこと、また一方の錦織廃寺もこれらと密接な関係をもっていたと解されることも、すでに指摘したとおりである。重要な点は、これら同心円叩目文をもつ塼が用いられていた古墳は七世紀の後半から末葉にかけての時期に属するという事実である。細井廃寺の場合、やや彫りの浅い複弁蓮花文軒丸瓦・重弧文軒平瓦とこの塼が共存したと考えると、やはり七世紀末葉には確実に成立していたことを裏づける。この細井・錦織両廃寺のある錦織地域はすでに触れたように『日本書紀』敏達天皇一二年条に「石川」と記され、のち『和名抄』に錦部郡百済郷と記載される地域である。すなわち両寺院の成立はこれらの地名に裏づけられる集落の存在と無関係ではないであろう。とすると、発掘調査も行なわれていない現在の段階では積極的な考察はまだできないものの、この地域の氏族集団の私的な氏寺的性格をこの両寺院はもっていたといえるかもしれない。