瓦工の渡来と屋瓦

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日本で屋根に瓦を葺く建築技法が初めて行なわれたのは、仏教伽藍建築からである。すでに述べたように『日本書紀』の崇峻天皇元年(五八八年)条に、百済から使者と僧侶が来日した際、寺工などの造寺技術者とともに「瓦博士」が同行していた記事がある。彼らの技術指導を受けて法興寺、すなわち飛鳥寺は完成した。同寺の寺域から発掘された屋瓦の中に、百済系の素弁蓮華文で飾った軒丸瓦が少なからず含まれていた事実が、それを裏づける。このようにして大和盆地の一角、飛鳥の地におそらく最初の瓦葺の建物が出現したのであろう。

 新堂廃寺から出土した屋瓦の中にも、この飛鳥寺ほどに古くはないが、同様な型式の素弁蓮華文をもつ軒丸瓦がある。また飛鳥時代に創建されたのちも、白鳳時代になって新たに付属建物を建て増ししたり、瓦の葺き替えを行なったらしく、時期の新しい単弁蓮華文や複弁蓮華文の軒丸瓦が、重弧文軒平瓦をともなって出土している。天平時代には複弁蓮華文軒丸瓦が均斉唐草文軒平瓦とともに登場し、鎌倉時代になると巴文軒丸瓦が珠文をもつ軒平瓦とそれぞれ一組になって使用されていたことが知られる。もちろん、屋根の葺料としてはこうした軒丸瓦、軒平瓦だけでなく、軒瓦に十数倍あるいは数十倍する丸瓦や平瓦が必要であったから、伽藍の主要建物に要する屋瓦の量だけでも、莫大な数に達したわけである。新堂廃寺の場合には、これらの瓦はどこから供給されたのであろうか。