一九六九年一一月九日、この市史執筆のための資料収集を行なっていた際に、新堂廃寺の北西に接するヲガンジ池の踏査にひとときをさいて赴いた。池の下段をめぐる堤防中に、たくさんの瓦片が包含されていたところから、池畔の丘腹に瓦窯があるいは存在しているのではないかと予想していたためであったが、この期待は適中した。
初冬の訪れを控えて著しく水が減じていた池の北岸には、平常になく崖が高さ三メートルほど水面上に露出していて、東北隅の一角に火熱を受けて赤色に変じた粘土壁が残っていたからである。崖の下には瓦片も散布していて一見して瓦窯の遺跡と判断できた(考古六三)。同年一二月末から翌一九七〇年二月にかけて、この瓦窯の発掘を市教育委員会の調査として実施したところ、構造上興味あるいくつかの事実とともに、窯の稼行年代に関しても、奈良前期から奈良時代中期にかけての、いわゆる白鳳~天平期に属することを明らかにしえた。おびただしく堆積していた瓦片も、新堂廃寺からこれまで出土していた白鳳~天平期の屋瓦とよく一致し、とくに堆積層中から検出した二個の複弁蓮華文をもつ軒丸瓦片は、同寺に使用された天平期の瓦当と同笵品であった。瓦窯の位置が新堂廃寺の中心から西北方にわずかに一〇〇メートル余りしかなく、ほとんど寺域に接して営まれている状況からしても、この瓦窯が同寺に屋瓦を供給する目的のために設置されたものであることは確実であろう。
それでは瓦窯の内容と調査成果について改めて説明しておくことにしよう。
瓦窯はヲガンジ池の東北隅にあり、低い丘陵の南斜面の裾で長軸を南北方向におき、南に開口した半地下式無段登窯である。すでに述べたように一九六九年までこの遺構の存在が知られなかったのは、窯体の開口部が低くて池水の満水線以下にあり、年間を通じてその崖面がほとんど水没の状態に置かれていたためである。崖面は長年月の間に少しずつ浸蝕されて窯壁の前面が破壊された結果、発見当時は火熱により赤変した窯壁の輪郭が露出していた。