本瓦窯で焼成して廃棄された屋瓦片は、焼成部の床面から燃焼部の一部にかけて堆積し、二〇~三〇センチの厚さをなしていた。その層序は細分すると窯廃絶時の堆積だけでなく、西壁に厚い貼り壁を行なった際その下部に覆われたり、あるいは間に薄く焼土層をはさむことで前後の時期差を明らかにしているので、四層の堆積段階を区別して、四時期の細分が可能である。この中、もっとも古い白鳳期の格子目叩文をもつ瓦片は、無段の床面に接してごくわずかだけ遺存していたのみで、堆積層中の大部分が縄目叩文に属している。すでに述べたように白鳳期の瓦片は天井部と貼り壁内から検出されて、瓦窯の稼行期間が長期にわたることを裏づけている。煙道の煙り出しに用いられた丸瓦と平瓦が天平期に属するのは、さらにその後天平期に入ってのちも窯体構造に改変が加えられた事実を示し、数次にかけての補修と改造が試みられたとみるべきである。
瓦当をもつ軒丸瓦はただ一個の小片が出土したにすぎない。複弁蓮華文の周辺に珠文と波状文をめぐらした平城宮式に属し、新堂廃寺から検出されたものと全く共通していて、同寺所用のこの形式の屋瓦がここから供給されたことを実証している。出土地点は焼成部西壁の貼り壁で、大きく補修された壁体直下の堆積層中から検出した。詳細にいうと本瓦窯で細分した四時期の中で、後半にあたる第三期に属している。これに対応する軒平瓦も焼造していたことは、同じ窯体内の瓦片の堆積した中から小片を検出したことから明らかである。
以上のように寺院に近接して屋根の葺料を供給する瓦窯が営まれたことは、寺院造営の実態を知る上で重要である。とくに瓦窯の後半段階において焼造された屋瓦が平城宮所用瓦の形式とよく一致し、瓦窯の構造でも共通する要素が認められるところに、窯業生産技術の交流と組織の拡散を反映するものとして興味深いものがある。