ところが一九七九年の夏に、淀川上流の左岸、大阪府と京都府とのちょうど境にあたる枚方市北楠葉町で、飛鳥~白鳳の時期にかけての古い瓦窯群が調査され、丘陵の南斜面に並ぶ六基の存在が明らかとなった(瀬川芳則「河内楠葉の飛鳥瓦窯群をもつ遺跡」『日本歴史』三八八、一九八〇年)。この中で第5号瓦窯と称する遺構は、焚口・燃焼室があって上方の焼成室に続く地下式有階の登り窯であった。灰原などから素弁蓮華文軒丸瓦、単弁蓮華文軒丸瓦、素文軒平瓦、重弧文軒平瓦のほか二種の鴟尾が発見された。素弁蓮華文軒丸瓦は飛鳥時代に属するというだけでなく、四天王寺や法隆寺の創建に使用した瓦当文と同笵とみられる興味ある事実も知られた。当時この瓦窯で焼造された屋瓦が、摂津にある四天王寺の伽藍の大半を賄う葺料として供給され、さらに一部分は大和の法隆寺にまで送られていたらしい。瓦窯を含むこの地域を楠葉東遺跡と称しているが、調査を担当した瀬川芳則氏らは瓦窯に接する緩傾斜地に、楠葉弥勒寺の寺址があったと考え、その創建年代を飛鳥時代にさかのぼる可能性があるのではないかとみている。