初期瓦窯の製品供給

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楠葉東遺跡の瓦窯がもつ重要性は、その製品を遠隔の著名寺院にまで供給している点にあり、この瓦窯から四天王寺あるいは法隆寺へはいずれも直線距離にして三〇キロあって、淀川、木津川、大和川などの水系を利用して運送したことが推測できる。とくに同一の瓦窯で焼造された屋瓦が、四天王寺と法隆寺の双方に供給されている事実は、寺伝に聖徳太子との深い関係を物語っている両寺院に共通した成立の背景を裏づけるものとして重要である。新堂廃寺の飛鳥時代の屋瓦はこの楠葉東遺跡の瓦窯とは結びつかないが、近傍のヲガンジ池瓦窯の焼造年代を飛鳥時代よりも新しいとすると、今後新堂廃寺に初期の屋瓦を供給した瓦窯が、どこに、どのようにして存在するかの問題を考える上で参考になる。それが近傍でないとすると、やはり石川、大和川の水系を利用したことが考えられ、さらに同笵の瓦当文が将来別の寺院でも発見された場合には、その年代と相互の関係も重要な意味を持つことになろう。

 大規模な宮殿造営の場合に、屋根葺料として一時に大量の屋瓦を要したのは当然のことで、近年、奈良国立文化財研究所により大規模な発掘調査が行なわれている奈良県橿原市の藤原宮址では、奈良盆地各所の白鳳時代瓦窯から上納された屋瓦を用いていることが知られるようになった(『飛鳥・藤原宮発掘調査報告Ⅱ』『奈良国立文化財研究所学報』三一、一九七八年)。それによると、現在までのところ五カ所の瓦窯から屋瓦を供給されたことがわかっていて、最も近いところでは同じ橿原市飛弾町の日高山瓦窯、久米町の久米瓦窯、やや離れて高市郡高取町の高台瓦窯、御所市今住の峰寺瓦窯、遠いところでは大和郡山市の西田中瓦窯などがあるという。このことからすると、ヲガンジ池瓦窯で焼造された白鳳時代から天平時代にかけての屋瓦が、たんに新堂廃寺の新築建物あるいは葺き替えの際の差し替え料を賄うだけでなく、周辺の寺院にも供給された場合が十分想定される。つまりヲガンジ池瓦窯の供給圏がどの範囲におよんでいたかを検討することで、白鳳~奈良時代における寺院造営の増加、拡大と、新堂廃寺の管轄下にあったとみられるこの瓦窯の社会経済史的位置づけが可能となるからである。今後周辺寺址の調査はこの問題意識のもとに進めることが必要となろう。