山田寺系式と称するのは、奈良県桜井市の山田寺創建に際して登場した軒丸瓦で「蓮弁内に子葉をもつ単弁蓮華文の重圏縁軒丸瓦」として、重弧文軒平瓦と組み合わせて、山田寺では金堂をはじめ塔・講堂など主要伽藍に用いられた。金堂に用いられた初出の瓦からみて、六四〇年代と考えられる。稲垣晋也氏によるとこの山田寺式瓦当文は「初唐あるいは隋から直接の伝来も考慮すべき」ものという(稲垣晋也編『古代の瓦』『日本の美術』至文堂)。同氏はまた「山田寺式の分布は東は関東地方から、西は兵庫・鳥取県下までで、概して東に厚く、西に薄いけれども、福岡・塔ノ原廃寺など、北九州の一角に飛火して小分布圏を構成」するとして、山田寺が蘇我倉山田石川麻呂の発願により、傍系の蘇我氏の氏寺として造建が始まったこととも関連して、この山田寺式瓦当文の分布が蘇我氏と関係の深いことを指摘した。
一九八一年に奈良国立文化財研究所飛鳥資料館で山田寺展が催され、「山田寺式」軒丸瓦について改めて整理を加え、東は千葉県、西は広島県まで分布する瓦を三つのグループと八つの型式に分類した。このうち第一群は本来の型式をもつ山田寺をはじめとして、それに近似した五型式からなり、蓮弁の形状、中房の大きさに小異がある。これに比べて第二群は型式の上で山田寺式から離れたグループに属する。第三群は大阪府羽曳野市の善正寺山廃寺出土のもので、さらに山田寺式から離れているという(『山田寺展』奈良国立文化財研究所 一九八一年)。新堂廃寺出土の単弁蓮華文軒丸瓦は第一群に属し、その中でも山田寺式を最も忠実に模倣した型式で、奈良県では同式の例が山田寺を除いても六例に達するのに対し、大阪府下では豊中市の金寺とともにわずか二例を占めるにすぎない。この山田寺式に厳密に類似する遺例は、分布の中心が奈良県にあり、東限が愛知県、西限がこの大阪府というごく限られた範囲である。六四〇年代に創建された山田寺金堂の軒丸瓦に最も近い型式をもつ意味は、新堂廃寺に用いられたこの種瓦当文をもつ屋瓦が、その年代からあまり離れることなく焼造された可能性を示している。とくに新堂廃寺所用の瓦当文の直径・中房径・内区径・弁幅が、山田寺に用いられた同種品に比べて一〇%ずつ減じている傾向が認められるのは、山田寺の瓦当を忠実に模して木笵が製作された結果、焼成によって約一〇%の焼け縮みを生じたためではあるまいかとひそかに推測しているが、この点は今後さらに検討してみたい問題である。