白鳳期の瓦の背景

559 ~ 559

白鳳時代になると河内南部の地域にも少なからず寺院が成立してくるが、新堂廃寺に山田寺系軒丸瓦が用いられた理由を、もし有意のものとして河内における蘇我氏一族との関係で説明できるとすれば、このヲガンジ池瓦窯で焼造したかどうかにかかわらず重要な事柄であろう。すなわち、ひいてはお亀石古墳の被葬者が属していた氏族にまでおよぶ内容だからである。『日本書紀』をはじめとする六国史などの諸史料には、石川臣など石川姓をもつ一族の名を見ることができる。石川郡の地名に因んだこの姓は、石川朝臣年足の薨伝に蘇我臣の本姓から出たと記すように、河内南部を本貫とする蘇我臣氏の一族が改姓して生じたもので、遡れば大和の蘇我氏と同族である(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証編 第一』一九八一、吉川弘文館)。両者の関係を裏付けるものは、すでに指摘したように終末期における横口の石棺式石室の分布であって、大和の明日香と並んで河内の石川谷周辺にも濃密に認められる。これらの石材には二上山産の白石と称する凝灰岩を共通して用いていることも、両地域の密接な交流を物語る事実といわねばならない。

 ただ、河内南部における白鳳時代の寺院址から出土する瓦当文様は、寺院ごとに多様化の傾向が認められるので、六世紀後半になるとこの地域の豪族勢力に著しい消長と交代があったことを反映していると考えられる。新堂廃寺の場合、八世紀には完全に平城宮式の瓦当文をもつ瓦を用いていることは、造瓦の技法が中央と直結したことを示すだけでなく、寺院の維持自体が奈良時代の律令体制の管理と統制に組み込まれた結果に基づく現象かもしれない。白鳳時代の屋瓦はその過渡期として、背景をなす河内南部の社会的勢力の変化を考察する上で、大きな意義をもつものであろう。