火葬の起源と火葬墓

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七世紀末の頃になると、石川谷を中心とするこの市域の内外に築造される古墳の数も次第に減少していく。約四百年もの長い歳月にわたって続いた古墳時代も、ようやく終わりを告げることになるのである。もっとも八世紀代に入ってからも、終末期古墳の様式を踏襲して、石材を用いて小石室を構築した古墳が営まれた場合もあるが、八世紀の段階とは仏教思想の影響による新しい葬送墓制が出現した時期であった。

 『続日本紀』によると、西暦七〇〇年にあたる文武四年に僧道昭が物化(死去)し、弟子らが彼の遺教にしたがって大和の粟原で火葬したとある。同書はこれに続けてとくに「天下火葬従此而始也」と記し、新しい葬法の開始が彼によると説明しているのである。もっとも遺体の埋葬に際して火熱で処理することが、これ以前に行なわれなかったわけではない。たとえば「竈塚(かまどづか)」の名称でよく知られているものとして、和泉陶邑をはじめ摂津、播磨などで、墳丘の中に丸太を屋蓋状に組んだ墓室を営み、埋葬後に焼却した特殊な墳墓がある。発掘してみると、遺骨や副葬品が火熱を受けているだけでなく、周辺の柱列がすっかり焼けて封土の一部を赤変させ、根本に炭化した柱根が並ぶ遺構として認められる。陶邑の例からみると六世紀代に須恵工人の間でこうした特異な葬法が行なわれていたらしい。(448)

448 堺市陶邑のカマド塚、コの字形に焼けた柱列が並ぶ  (大阪府教委調査時写真)

 それにもかかわらず道昭の場合が、日本における火葬の嚆矢として『続日本紀』の中に特記された理由は、彼自身の経歴と後に社会的におよぼした影響の大きさによるものであろう。