道昭の火葬とその背景

561 ~ 562

道昭は六二九年にあたる舒明元年に河内国丹比郡(南河内郡西北部)で、渡来百済系の船氏の一族、船史恵尺(えさか)の子として生まれた。父の恵尺は『日本書紀』皇極紀によると大化改新のとき蘇我蝦夷が自殺した際に、天皇記、国記、珍宝を焼却しようとしたところ、火中に飛び込んで国記を救い出し、中大兄皇子に献上したという人物である。道昭は六五三年(白雉四年)に入唐学問僧に選ばれて、大使吉士長丹らと同船して中国に渡り、玄奘(げんじょう)三蔵の仏門に帰依して、三蔵から手厚い教えをうけたという。玄奘といえば小説『西遊記』の主人公として登場する三蔵法師の名で広く知られている人物であるが、その実像は当時唐の長安から大変な苦難に耐えてインドに入り、深く経典をきわめて、帰国後は法相唯識宗を確立した唐代第一の高僧で、六六四年に没している。したがって道昭は玄奘の晩年にその教えに接したことになる。とすると道昭は玄奘を通じて唐代仏教だけにとどまらず、師がインド滞在中に体験した数々の新知識についても与えられるところが多かったに違いない。道昭も帰国後、元興寺伝と称する法相教義を伝えて法相宗の祖となった高僧で、のち大僧都の位に達したといえば社会的影響力の大きさが推測できよう。