火葬の習俗は仏教だけに限ったことではない。ヨーロッパでは新石器時代から青銅器時代、鉄器時代にかけて各地に広く見られた風習で、キリスト教が広まる頃から次第に衰滅に向かったという。一方、アジアではインドにおいて火葬が四葬の一つとして、土葬・水葬・風葬と並んで行なわれていたほかには、中国周辺の異民族の間で若干存在したことが記録に見られる程度にすぎない。しかしインドで釈迦牟尼が仏教の開祖となり、仏教徒達が荼毘(だび)と称して火葬の習慣を行なうに至って、仏教と火葬とが密接な関係を持つことになった。とくに釈迦の遺骨を仏舎利としてスツーパと名づけた塔に納めたことが、塔を中心とする寺院建築の起源をなしたいきさつはよく知られている。
ただインドから周辺に伝わった仏教に対する信仰が直ちに火葬の風を生じさせたわけではなく、中国では紀元一世紀の後漢明帝の時期に仏教を受容し、三国から南北朝にかけて仏像崇拝は盛んになったにもかかわらず、仏教信仰と結びついた火葬の流行はなかった。ようやく七世紀初頭の隋末・唐初を迎えてこの習俗は始まり、その初期の段階には僧尼の間に行なわれて、仏舎利と同様に遺骨を小銅棺や小石棺などの蔵骨器に盛る形で成立した。この経緯からすると漢代以降の中国仏教の伝統とは別に、新たにインドのグプタ王朝の流れを受けた影響が中国におよんで、葬制の変革を生じたと解釈することができ、火葬の実施者がその思想を直接受容した僧侶であったことも肯けよう。火葬の成立は、六四五年に玄奘がインドから帰唐する以前とみるべきであるが、彼もはるばるインドに赴いた新知識人として『大唐西域記』を著した人物という点で、その弟子となって深く感化された道昭が、火葬の実践こそ釈迦の教義の真髄に触れる行為と信じるに至ったのはごく自然のことといわねばならない。