中国で七世紀初頭に仏教と結びついた形で火葬が僧侶や貴族に流行するに至ったのちに、東アジアの周辺地域もその影響を受けた。日本と最も近い隣国というべき新羅でも『三国史記』によると、第三十代の文武王が治世二一年に没するに際し「西国之式」によって火葬することを遺詔したのは六八一年のことで、日本において道昭を火葬した七〇〇年をさかのぼること、わずかに二〇年にすぎない。しかも新羅でも、のちに華厳宗の開祖となった義湘という僧侶が、やはり六五〇年に唐の長安に赴いて仏法を修め、六七〇年に新羅に帰国している。文武王自身も、この義湘に治国の法を諮問していたことが、上述した『三国史記』の文武王二一年条に見えるので、当時の唐における火葬の新風が、葬礼の制度を努めて「薄葬」にする所以であると理解していたとしても矛盾しない。「西国之式」という表現からも、新羅文化が深く傾倒していた唐代文物の一要素として受容されたことが明らかで、日本の場合にも唐留学僧の経歴をもつ道昭が、仏教思想にもとづく火葬の創始者として認識される結果になったのは、その影響力の大きさによるものであったであろう。
しかし仏教思想に支えられた火葬は、外来思想の体系に属するものとして、従来の日本の豪族達による伝統的な葬送思想に根本的な変革をうながし、墓制に重大な変化をもたらすものであった。それは古墳時代の社会の思想体系と全く異なる次元の行為として、まさに隋・唐の律令制度の採用から生じた社会制度の変革と共通する現象であった。行政を体系化し法秩序をもって律する手段として、律令体制が外来的な中央集権的政治方式の理念となった。儒教の徳治主義と法家の法治主義の影響が奈良時代の政治を特色づけたことはよく知られている。同じ時期の火葬の流行は仏教思想の普遍化によって、社会思想の内在面にまで浸透した意識が、荼毘という究極的な行為を可能にした。日本が東アジアに共通する社会的基盤を形成した上に、先進的知識人としての僧侶が、従来の日本にまだ定着していなかった宗教儀式としての火葬をまず実践することになったと解すべきであろう。
この事実は東アジアの社会圏の中で日本を考える場合に重要な意義をもつことになる。つまりこの段階で、日本の社会思想はこれまでの豪族と古墳との結合という古い列島的様相から脱却して、インド・中国・朝鮮半島の諸地域と共通する仏教思想に加わることができたのである。古墳時代後期から終末期にかけての群集墳の流行は、この動向を示す底流ではあったが、なお前期から中期にかけての古墳のもつ性格を踏襲している点で過渡期的段階に属している。