新しい墓制の萠芽は墳墓の中に墓誌をおさめる風潮が始まったところにも認められる。本巻古代編の項で詳述するように、墳墓に被葬者の官位・名字・卒年を記した墓誌をおさめることは、六六八年の船氏王後の例を初見として、七世紀中葉以降から存在している。王後の墓誌は江戸時代に出土していて墳墓に関して全くわからないが、銘文中に「松岳山」上に葬ったとあり、狩谷棭斎の『古京遺文』以来柏原市国分の松岳山にあてている。王後が王智仁の孫にあたり、船氏一族の有力者であったことと、道昭もまた船氏の後裔に属していたこととの共通性に大変興味がある。船氏は渡来系氏族で、氏姓の示すようにもと海上交通の職掌に関与していた家柄とみられる。いずれにしても日本における墓誌の流行は、遣唐使の派遣と深い関係を有していたことがすでに指摘されている(森本六爾「上代墓誌に関する二、三の私考」『考古学雑誌』一六―三、一九二六年)。
墓誌の出土数は、最も多く発見されている畿内の場合でもまだ一五例にすぎず、そのうち大半にあたる九例が大和に集中している。河内では上記の船氏王後の墓誌をはじめとして、三例がことごとく南部地域から出土している点に注目すべきであろう。すなわち他の二例は「高屋連枚人」と「紀吉継」で、前者は太子町太子の叡福寺愛染堂付近からの発見といい、後者は同じく太子町春日の妙見寺境内から江戸時代に出土したもので、前出の『古京遺文』には茶臼山と称する地であったと伝える。さらにこれに墓碑として「妥女氏墓域碑」が、かつて石河郡春日村(太子町春日)の帷子(かたびら)山に遺存していたという所伝を加えると、河内南部の墓誌関係資料の分布について、本市に隣接する太子町が占める比重はきわめて大きいといわねばならない。