これに対して本市域内で墓誌が発見された例はまだないが、火葬墳墓ないしそれに関連する内容の遺跡とみられる資料は一〇例ある。これを表示すると次頁のとおりである(449)。つぎにこれらの遺跡の分布が意味するところと年代、内容、特色をめぐる若干の問題を取り上げてみることにしたい。
遺跡名 | 所在地 | 種類 | 伴出遺物 | 時代 |
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1平古墓 | 喜志梅の里住宅内 | 平1号墳・須恵質蔵骨器 | 隆平永宝 | 平安 |
平2号墳・須恵質甕? | ||||
2鍋塚古墓 | 宮町三丁目 | 凝灰岩製蔵骨器 | なし | 奈良? |
3櫟坂古墓 | 高辺台三丁目17号棟 | 凝灰岩製蔵骨器 | なし | 平安? |
4五軒家古墓 | ―― | ―― | ―― | ―― |
5甲田南古墓 | 南甲田309号線道路敷 | 土師質甕形土器3・土師杯 | 和同開珎 | 平安 |
6だいだい池古墓 | 宮甲田だいだい池 | 土師質甕形土器3・須恵杯蓋 | なし | 平安 |
7廿山古墓 | 高辺台二丁目 | 凝灰岩製蔵骨器 | なし | 平安 |
8板持古墓 | 旧大伴村大字板持(東国博) | 須恵質短頸壺 | なし | 平安 |
9板持3号墳南斜面古墓 | 山手町、市立三中南側 | 須恵質甕と同質の杯 | なし | 奈良 |
10龍泉古墓 | 龍泉、龍泉寺西方硯石 | 須恵質有蓋短頸壺・同甕 | なし | 平安 |
市域内に分布する遺跡の大半は羽曳野丘陵上の東西両縁に沿っていて、一部分が佐備・板持丘陵上と嶽山の東斜面に存在し、一地域に集中する傾向は認められない(227)。丘陵上に立地する理由は、埋葬にあたって地形が隆起した高燥地の南斜面を墓域に選んだためらしい。興味があるのはこれらの中に平古墓や板持古墓のように、古墳の墳丘の一角を占めて墓域を設けている例のあることで、両者はともに前方後方という特異な形状の墳丘をもった古墳の南斜面に須恵質壺形の蔵骨器を埋葬していた。いわば古い墳墓に新しい埋葬を追加して行なっている点で、古墳の被葬者と古墓との間に何か血縁関係の存在を想像させないでもない。しかし古墓がいずれも八世紀に営まれたものとしても、平古墳の場合には六世紀築造の古墳に対して約二百年間の隔たりがあり、板持古墳ではさらに古く、四、五世紀の古墳に対して約四百年間の隔たりが考えられるとすると、八世紀になってからの追葬に際して、同族意識など血縁関係の記憶は、稀薄になってしまっていたであろうとしなければならない。むしろ墳墓としてのささやかな地域的伝承が、後世になって再び蔵骨器を埋葬するにあたって、適地として選定された程度のことであったとみられる。
ただ、市域の古墓の中には双葉町の甲田南古墓のように、少なくとも三基の埋葬が接近して行なわれていた例もある。奈良県下ではもっと大規模な共同墓地的な形で群集する場合もあることが知られているので、時期が新しくなるにしたがって同族集団が墓域を長期間共有したことも当然ありえたであろう。
市域内から発見された一〇例がことごとく火葬墳墓であったかどうかは、この中で焼骨を遺存した例が平古墓、板持2号古墓、龍泉古墓などごくわずかで、他は遺骨の有無が不明であったため厳密には断定できない。しかし奈良時代から平安時代にかけてのこの種葬法による埋葬施設の大部分が、火葬処理をした遺骨を収納していたことは確実である。