蔵骨器の多くが須恵質の有蓋壺からなることは、当初僧侶の間に始まった火葬で、遺骨を仏舎利の容器に納める習俗が伝わったためである。平古墓・龍泉古墓はこの本格的な例といえるが、一方ではだいだい池古墓や甲田南古墓の場合に見られるように、土師質の有蓋甕が用いられた例もある。概して須恵質の蔵骨器は奈良時代に始まり、土師質などの容器は平安時代からそれ以降にかけて使われているといえる。また壺形土器のほかに蓋をもつ椀形土器も登場している。土製容器に限らず、青銅製や、青銅の上にさらに鍍金を施した金銅製の蔵骨器も二〇例近くあり、被葬者の身分の高さを想像させる。金銅製蔵骨器の代表的な遺例は、奈良県北葛城郡香芝町穴虫から江戸時代に発掘された威奈大村の容器で、現在もなお金色の光沢が部分的によく残り、蓋の表面に一〇字三九行の墓誌が刻まれている。珍しい青銅製蔵骨器の例としては柏原市南端の玉手山丘陵にある黄金塚から出土した櫃形容器がある。長さ三二センチ、幅一五センチ、高さ一四センチほどの印籠蓋の仕組みの蓋・身からなる重厚な長方形の銅函で、鋳造品らしい。一九〇五年発見当時、蓋の内面に墨書した形跡が認められ、墓誌銘の可能性が強いと思われるが、全く判読できなかったという。したがって年代を確定する手がかりはないが、石田茂作氏は平安時代に属するとみている。